【施術スタイル】

【施術スタイル】
タイマッサージを生業と、志事、ライフワークにさせて頂いて幾ばくの時間が過ぎました。

齢は四十五となり、
今現在、掲題の所感です。

ぼくのバックボーンは、格闘技と武術。
格闘技はルールがあるスポーツであるのに対して、武術はルールではなく目的。

そこを踏まえて。

武術にはそれこそ剣術ですら数百という流派があります。

昔、先生に
「流派って何ですか?優れた流派はなんですか?」と訊いたとき、

A、「その開祖、先生ごとの真理の表現だよ、そこに優劣はないけど先生も食べなきゃいけない、派手な技を見せたりして門弟を増やさなきゃいけない。

でも、真理の表現は本質に近づくほど見栄えはしないし退屈、優れたというものがあるなら、地味なやつかな(笑)」

という話をおぼろげに覚えている。
30年も前の話だ。

療法、療術も似ている。

本質が同じものを
名前を変え、
見せ方を変え、
生徒を増やすため様々な形に変えて、
あまたの療法がある。

観る人が見れば同じものを。だ。

どんなものも、
流れ作業でなければ、
地味な作業の反復をする。

時に試行錯誤し、
時に単純作業とし、

それが苦痛であれ、
喜びであれ、

まず、それが在り表現はかなう。

療法は瞑想であると同時に、
身体を瞑想に添わせる作業であり、
瞑想に身体を委ねる作業だ。

ダンスに似ているのかもしれない。

基礎があればあるほど、
受け取り、
受け渡すことが出来るようになる。

森に入って「今この瞬間の完璧」というフラクタルな全てに包まれると、
スタイルや流派はどうでもよいと思えてしまうし、

この状態を施術で再現することを想うと、
愉しさと、
わくわくが首をもたげてくる。

宮本武蔵も塚原卜伝も伊藤一刀斎も、
「師はない、強いて言えば山。」
と言っている。

真理など教わるものではなく、
氣付きである。

氣付き、の助けをするのが師であり、
氣付きの基を作るのが學舎であり、流行なのだと思う。

そもそも、そんなものがなくても、
山に籠れば良いと思うのだが、
今の世ではそれはいささか無理がある。

治療系の内容や、
方向性をもった施術はまた別かもしれない(当然だが、極みにあれば同じとも言える)。

あくまで、
プロとしていまはしているので、
どちらも表現をしている。

どちらの受け手の反応も、
良いものだ。
それは当たり前だが、
言葉ではなく受けとることが明確にできる。

Zoeで伝えるテクニカルなこと、
これは技術なので誰でも努力で手に入れることが出来る。

Zoeで伝える土の部分、
技やそれ以前のこと。

これは、ここのバックボーンや覚悟によって差異が出てくる。
ここがなければ、枝葉は拡がらない。
机上の空論になる。
伝聞や知識で終わる。

どの療法も素晴らしいのに、
「~に行ったけどイマイチだった、」
と言われるのはここが抜けてしまうから。

どのスタイル、流派もしっかり伝わっているなら(學び手が受け取り、表現出来ていれば)手品のようにアメイジングな結果が出てくる。

それこそ結果を求めなくても。

技だけなら、
プロとしてやっている人なら誰でも出来る。

Zoeはマスタークラスが學びに来る。
【土】を活かさなければ枝葉も伸びないことにこの辺りで氣付くからだとおもう。

ヒ骨とキョ骨を、森のなかで整えながらの雑文。